この度の台風で被災した方へ,心からお見舞い申し上げます。
一日も早く,元の生活に戻れることを願っております。
さて,今日はそんな台風に関する,ある報道に関してです。
ニュースを聞き流していたところ,
「ちょっと船の様子を見てくる…と言って家を出た方の連絡が取れなくなっている」
という話が聞こえてきました。
台風といえば,高波です。
海は高波,下手をしたら冠水していて,非常に危険です。
テレビ報道でも,海には近づかないように,何度も何度も呼びかけています。
それでも,船を見に行き…そして行方不明になる。
これは,今回に限ったことではなく,5年前も10年前も20年前も…
こういったニュースは後を絶たないもの。
若かりし頃は,
「ただのアホだろ」
くらいにしか思っていませんでした。
ですが,台風で,この手のニュースを何度も耳にするうちに,
「ただのアホだろ…」
という思いから,
「なぜ?」
という疑問に変わりました。
もしかしたら,ニュースで報道しているような,危険性に対して,
「自分だけは関係ない」
と思い込んでいるのであれば,ただのアホではなく,とんでもなくアホということになります。
ある時は,
「自殺したかったのかな」
「これなら,保険金が出るに違いない」
くらいに思ったこともありました。
いろいろと考えたのですが,答えは出ません。
「ちょっと田んぼ見に行ってくる」
「ちょっと畑見に行ってくる」
「ちょっと船見に行ってくる」
こう言って,行方不明になった人に,
「あなた死ぬかもしれないとわかっていて,なんで見に行ったのですか?」
と聞いてみる他ないでしょう。
もちろん,行方不明になった人に聞くことはできません。
あくまでも,推測です。
一つの考えとしては,
「自分の命よりも大事だ」
という判断だったのではないでしょうか。
上記の通り,
「田んぼ」
「畑」
「船」
は,農水業の方にとって,生活の糧を得るための決定的な存在です。
つまり,ここでは
「船がどうにかなってしまったなら,生きていても仕方がない」
それくらいの覚悟で,家を出たのかもしれません。
本当のところはわかりませんが。
逆に考えてみると,わかりやすいかもしれません。
具体的には,
「ちょっと船見に行ってくる」
という人に対して,どんな言葉を掛けたら,思いとどまってくれるでしょうか。
単純に興味本位ならば,すぐに思いとどまるでしょう。
台風などが来ると,ワクワクして表に出てしまう…そんな人であれば,
「ハウス!」
で済むかもしれません。
ですが,船に殉じる覚悟を以て家を出ようとしている人に,どんな言葉がけをすれば思いとどまってくれるでしょうか。
ちょっと考えても,なかなか出てくるものではありません。
なにせ,「殉じる覚悟」を持っているのですから。
ここでのポイントとしては,
「人は自分の命よりも大事なものがある」
ということです。
例えば,子どもがいるとします。
子どもが目の前で溺れています。
自分は泳ぎが不得意です。
救助を呼ぶにしても,場所が遠隔地すぎて,まず間に合わない状況です。
さて,助けに行くでしょうか。
それとも助けに行くのはやめるべきでしょうか。
溺れている人の救助など,よほどのスペシャリストでなければ,現実的ではありません。
まして,泳ぎが苦手だったら,行っても無駄死にです。
子どもは死にますが,自分は助かります。
もちろん,そこで助けずにいたところで,法的に問題はないでしょう。
ということは,ダメ元で救助を呼ぶくらいで,決して自分が助けにいかない。
これが「合理的」というものです。
…にもかかわらず。
こういった場面で,助けに行くことで,ふたりとも溺死する…というニュースはこれも年に1回くらいは耳にする話です。
敢えて引用はしませんが,今年8月にも,溺れる子どもを助けようとして大人2人,合計3人が溺死しています。
では,「それでも助けようと水に飛び込んだ人」にとって,自分の命よりも何が大事だったのでしょうか。
もちろん,子どもが大事かもしれません。
ですが,繰り返します。溺れる者の救助は,スペシャリストでもなければ,二次被害が起きる可能性大です。
それでも水に飛び込まずにいられなかった人にとって,自分の命よりも,何が大事なのでしょうか。
もしかしたら…親としては,子どもが目の前で溺れている。
「個人」として考えた場合は,助けに行かないのが,合理的な判断です。
ですが,「個人」ではなく「親」としての立場であれば…飛び込まないほうが,不合理…という判断も起きるのです。例えその結果,いずれも助からないとしても,です。
私は子どもがいないので,親の気持ちはわかりません。
ですが…親として,子どもが目の前で溺れているのを傍観して「見殺し」にしてしまったなら…その後の人生は,後悔だらけで過ごすことになるのではないでしょうか。
それならば,両方助かる,という一縷の望みに懸けて飛び込む。これが合理的な判断なのかもしれません。
さて,非常に物々しい話でした。
つまり,「個人」としての見方と「親」としての見方は必ずしも一致するとは限らない…ということです。
ならば,もしかしたら,コピーなどで,「個人」宛では響かないけれども「親」として「買わないことが不合理」と感じさせるような,そんなコピーを書くことはできるかもしれないのです。
コピーは…合理性だけでは駄目なのです。
人は…命よりも大切なものがある…という,究極の不合理性すら持ち合わせているのです。
そういった観点から,多角的に考えてみると,ひと味ちがうコピーになるかもしれません。
あなたがよりアップスタッツな明日になりますように。
セールスコピーライター 飯山陽平
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