【定義】クリスマス
イエス=キリストの誕生を祝う祭り。(デジタル大辞泉)
辞書には、このように記載されています。
しかし。
Wikipediaによると。
「キリスト教においてもクリスマスは「降誕を記念する祭日」と位置づけられており、「イエス・キリストの誕生日」と考えられているわけでは無い。イエス・キリストが降誕した日がいつにあたるのかについては、古代からキリスト教内でも様々な説があった(例えば3世紀の初め頃には、アレクサンドリアのクレメンスは5月20日と推測していた)」
また、このようにも書いてあります。
「新約聖書には、イエス・キリストの誕生日を特定する記述は無い。」
身もふたもないのですが、イエス・キリストの生誕と、クリスマスという12月24日、25日というのは直接関係がないようです。
実際、知り合いのクリスチャンに尋ねてみたのですが、イエス・キリストの誕生日がいつなのかは判明していないのだとか。
まあ、それを言い出したら、そもそも「イエス・キリストは実在したのか」という問題にまで発展してしまい、宗教論争になりかねませんので、これくらいにしておきます。
それでも、日本人はクリスマスをイベントとして捉えています。
なぜなら。
またWikipediaから引用します。
「東京基督教大学の日本宣教リサーチによれば、2014年の日本のキリスト教人口は約104万人で、日本の全人口のうち、0.82%となっている」
割合的に考えるならば、日本は世界でも屈指のアンチキリスト教国と言えるのかもしれません。
なぜ日本でキリスト教が普及しないのかについては、様々な諸説がありますので、今日は省略します。
ただ、身も蓋もない表現をするならば、
「ぶっちゃけ、カケラほども信じていないけど、とりあえず騒いでみた」
という感じでしょうか。
しかも、一週間も経てば、今度は神社仏閣巡りがスタート。
正統派のキリスト教徒(そんなものが今の時代に存在するのであれば…)からしてみたら、なんとも許しがたいでしょう。
さて本題です。
なぜ「カケラほども信じていない」にも関わらず、クリスマスで盛り上がるのでしょうか。
これは、個人的な私見です。
あくまでも、このブログはマーケティングやコピーライティングをテーマにしたコンテンツです。
宗教史を語る場ではありません。
理由は、
「都合が良かったから」
としか言いようがないのではないかと思われます。
要するに、
「口実」
です。
誰かにとって都合がいいのです。
例えば、ケンタッキーフライドチキン。
これはどちらかと言えば「ハレの日」の食べ物です。
ファーストフードとして、日常的に食べる、といったカテゴリではありません。
例えば、マクドナルドは、不祥事もあり、さんざん苦戦しています。
そこに、他のハンバーガーチェーンがシェアを伸ばそうと熾烈な争いをしています。
ですが、ケンタッキーフライドチキンには確固たる競合は存在しません。
価格もどちらかと言えば、この手のファーストフードの中では高価格帯。
だからこそ、ハレの日の代名詞なのです。
そして、めったに食べられないハレの日の食べ物たるケンタッキーフライドチキンを食べる「口実」に、クリスマスが使われるのです。
プレゼントが欲しい子どもにとってみれば、クリスマスは「おねだり」する口実になります。
…それ以上に。
「プレゼント」として買い物をしてほしい、業界関係者からしてみれば、やはり「口実」なのです。
「クリスマスプレゼント」が定着するならば、玩具の販売数が伸びます。
イエス・キリストなど、二の次三の次。
クリスマスにかこつけて、どれだけ販売数を伸ばすか。
これが、クリスマスの実態なのでしょう。
ここで重要な点。
それは、クリスマスというイベントそのものの奥に、意味が全く無いことです。
冒頭の話しに戻ります。そもそもクリスマスは「イエス・キリストの生誕」を祝うイベントのはずでした。
ですが、実際には12月に生まれたという根拠はありません。
そして、日本人はカケラほどもイエス・キリストの生誕を祝う気はないのです。
クリスマスにかこつけて、マーケティングキャンペーンを展開したいだけなのです。
「クリスマス」の本質は「口実」なのです。
ならば、「口実」でしかなく、実質的な意味はなにもないのであれば…他に、どんなこじつけでイベントを立てて、マーケティングを展開してもいい、ということになるのです。
例えば…
「隣の家で猫が子どもを産んで…カワイイので20%オフ」
とか。
最後に、蛇足です。
>正統派のキリスト教徒(そんなものが今の時代に存在するのであれば…)
と書きました。おそらく今日において正統派のキリスト教徒は存在しないでしょう。
なぜなら、A.C.325年において開催された「ニカイア公会議」において、「何が正統派」で「何が異端」なのかが話し合われました。つまり…時の権力者や、時代の流れによって、教義が変わっていった、ということを意味します。もともと、イエス・キリストが活躍した「本来のキリスト教」は、忘却の彼方へ…といったところでしょうか。
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